グイノ・ジェラーる神父の説教



C 年

年間第23主日から

王であるキリストの主日まで





年間第23主日
年間第24主日
年間第25主日
年間第26主日

年間第27主日
年間第28主日
年間第29主日
年間第30主日
年間第31主日

年間第32主日
年間第33主日
王であるキリストの祭日



          年間第23主日  C年  201998日   グイノ・ジェラール神父

                    知恵の書 9,13-18  フィレモン 9,1012-17  ルカ14,25-33

  今まで群集が自分の後に従って来ることをイエスは許していました。大勢の人が他の人々の真似をしただけで本当の理由を知らずにイエスについて行きました。群集の中で目立たずにイエスに従うことに責任はありません。しかし、イエスの弟子になることは良く考えた上で、個人的な決意を要求します。そういう訳で、イエスは振り向いて、群集の行進と歩みを止めさせ、皆が座るように指示します。なぜなら、立ったままでは大切な事を決めることは不可能だとイエスはよく知っていますから。イエスに従うことは人生の終りまで続く長期的な冒険ですから。イエスはエルサレムへの道を歩みます。そこで彼は苦しみを受けて、死にます。イエスの後に従いたい人は、どうしても「死に至る道を」選ばなければなりません。

  群衆に語られたイエスの厳しい言葉は、自分の生き方について良く考えるように誘います。もしこの言葉が12人の弟子たちだけに言われていたなら 私たちの気持ちを楽にするでしょう。しかし、残念ですがイエスは群集に向かってこの厳しい言葉で演説しました。曖昧さを一掃して、弟子になりたい人々と既にキリスト者になった人々に向かってイエスは語りました。

  先ず初めに「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」。イエスの弟子になるために、自分の命を捧げ、徹底的に愛することを選ばなければなりません。この珍しい愛し方を邪魔する力を追い払うことがとても大切です。次に「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」。そして最後に「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」と。三回イエスは厳しい言葉を皆に聞かせました。そのためにイエスは群衆に座って落ち着いて考えることを勧めたのです。イエスに従うことは決して問題のない世界をゆったり散歩することではありません。イエスに従うことはキリストと共にカルワリオまで、ゴルゴタの丘を登ることです。

  知恵の書が教えているように、私たちは容易に大切な物を忘れがちです。「朽ちるべき体は魂の重荷となり、俗世の幕屋が悩む心を圧迫します…天上のことをだれが探り出せましょう」(参照:知恵の書9,15-16)と。「神の計画を知りうること」や「神の御旨を悟りうる」(参照:知恵の書9,13)ことは簡単ではありません。そういうわけで、イエスは「二人の王の間の戦い」について語りました。イエスは、はっきり教えています。一方の王は他の王よりも力強いです。恐ろしい敵で、「悪である」この王に打ち負かされないために私たちは迎え撃つ心構えをもって、適当な準備をしなければなりません。この戦いに打ち勝つにはイエスと一致しすることが肝心です。というのは、イエスと共に、イエスの内に、イエスによってしか弟子は闘いの勝利を受けないからです。私たちが無事に自分の人生の塔を建てるために、イエスはいつもミサ祭儀を通してご自分の全てを与え、私たちを攻撃する悪の力を弱めてくださいます。

  家族の宴を始め、物質的なつながり、利益になる物事と安全な生き方から離れるようにと、自分に従いたい人にイエスは呼びかけます。力であるキリストと共に栄光と勝利に与るためにたくさんの物事を失う必要があるからです。今日私たちはイエスの呼びかけに耳を傾け、彼の弟子になり、厳しい生き方を選び、彼に従うことができるでしょうか。正直に一人ひとりイエスに自分の決めたことを打ち明けましょう。イエスに従って喜びの内に歩み続けるために、勇気と希望を与えるイエスのもう一つの言葉に耳を傾けましょう。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(参照:ヨハネ8,12)と。アーメン。



            年間第24主日  C年  2019915日   グイノ・ジェラール神父

               出エジプト 32,7-1113-14  1テモテ 1,12-17  ルカ 15,1-32

  神は全ての人の救いを望まれます。犯した偶像礼拝の罪にもかかわらずイスラエルの民はモーセの懇願と執り成しのお陰で、罪の赦しを受けました。初代教会の迫害者であったパウロもイエス・キリストから罪の赦しと回心の恵みを受けました。見失った一匹の羊、無くした一枚のドラクメ銀貨、放蕩息子のたとえが、過ちを認めて回心する人のためにどれほど神は喜んでいるかを良く表しています。

 フィリサイ派の人々はイエスの付き合っている人々との疑わしい関係を咎めていました。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と。ファリサイ派の人たちが言いたいのは「似ている人々が集まる」「類は友を呼ぶ」ので付き合う人々を選ぶべきだと言う事です。なぜなら、イエスは律法を無視し、安息日を守らない、その上、不潔な者になるので律法で会ってはいけない人々と出会うからです。イエスは罪人たちと一緒に食事をし、彼らの手が自分に触れることを許すので、それによって不潔な者になってしまうことを見て、ファリサイ派の人々は非常にショックを受けています。ですから、彼らはこのイエスは神に遣わされた預言者、あるいはメシヤだということを信じることができませんでした。

 人を「罪人だ」と定め、自分たちが正しい、非の打ちところのないと信じているファリサイ派の人々は不幸な人たちです。イエスは一度も「あなたは罪人だ」と言いませんでした。むしろ一人ひとりの人に対して、あなたは神の赦しに相応しい人だと啓示しました。自分の犯した過ちを認めることは、神の愛と慈しみが自分の人生を満たすことを強く望むことです。そのうえ、天使たちと神ご自身に大きな喜びを与えることです。

 自分が罪びとだと認めることは「わたしたちを愛し、わたしたちのために身を献げられた」(参照:ガラテ2,20)イエスの愛をはっきり理解することです。実は、罪は私たちを愛する神を苦しめるのです。一匹の羊を見失った羊飼いも、ただ一枚のドラクマ銀貨を失った婦人も、愛する息子が家を出てしまった父親も苦しんでいます。このことを理解するなら、私たちは回心の目的を悟るでしょう。回心することは、ファリサイ派の人々を真似ることでなく、また非の打ちどころのない人、完璧な人となるために罪を避けて努力する事でもありません。回心の目的は「神を喜ばせる」ことです。

 「神は私たちを信頼します」と聖パウロは、テモテへの手紙に書きました。誓った約束を実現し、イスラエルの民の罪を赦すことで神は彼らを信頼しました。私たちを救い、赦し、私たちの過ちの故に苦しんでいる神に、私たちは揺るぎない信頼を示すべきです。神の無限の愛を少しでも理解するなら、きっと私たちも神と共に「悔い改める一人の罪人について」大いに喜ぶでしょう。

 今日の三つの素朴な例え話を通して、イエスは見失われた人々に対する神の慈しみを語りました。其々のたとえ話は特徴を持ち「罪人に対する神の愛が喜びの泉である」ことを啓示しました。この喜びは特に「再会の喜び」です。見失ったものが見つけられ、命と喜びで満たされます。「祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」(参照:ルカ15,24)と。

 キリストによって、キリスト共に、キリストの内に、神が私たちを探し、他の人々と一致させ、集める、それはとても楽しい、永遠の祝宴に招くためです。ですから神の素晴らしい愛を感謝しながら、神から離れることのないように恵みを願い求めましょう。アーメン。



                年間第25主日  C年  2019922日  グイノ・ジェラール神父

                        アモス8,4-7     1テモテ2,1-8   ルカ16,1-13

  仕事に対しても人々に対しても皆があらゆる面で誠実に正直に生きることを預言者アモスは要求します。聖パウロは初代教会のキリスト者に、性別を問わず模範的な生き方を送り、真心から祈ることを願っています。イエスは主人から解雇される管理人が負債のある人の負債を誤魔化して負債者に恩を売っている行動を見せながら、私たちも神に信頼され、賢く抜け目のない人となるように望んでいます。

  この世では賢く抜け目のないやり方で、勇敢に人を誤魔化して、自分の利益になるように行動する人たちが多いです。預言者アモスとイエスは、一連の不正行為を教えています。量りの升を小さくすること、分銅は重くすること、偽りの天秤を使うこと、値上げをすること、貧しい人を悪用すること、不正取引された請求書を通していつか役に立つ仲間たちを作ることなど。

 自分の目的を達成するために他人を利用するのか、ありのままで神に仕えるのか、私たちはどちらかを選ばなければなりません。神に仕えることとは、神を真似ることです。言い換えれば、できるだけ他人と良い繋がりを結ぶために、あらゆる方法を捜し求めることです。神に仕えることは、利益のために一人で自分の中に生きることではなく、むしろ、たくさんの友だちを作ることです。「永遠の住まいに迎え入れる友だち」を作るようにイエスは私たちを誘っています。

 お金は良くも悪くもない、それは生きるために必要なものです。しかしイエスはお金を「不正にまみれた富」と名づけました。というのは、お金は「人生で大切な信頼できる支えだ」という幻想を人の心に吹き込むからです。この幻想は私たちの目から大切な物を隠します。私たちが持っている物質的な物は他の人と親しい関係を結ぶために役に立つでしょうか、それとも、私たちを自分自身の殻の中に閉じ込めるでしょうか。不正にまみれた豊かさが私たちの目を騙さないように、イエスは私たちの目を開こうとします。この豊かさが分ち合いや助け合いの方法となり、人々と友との親しい関係を結び付けるきっかけにならなければなりません。ご存じのように、イエスはお金を持っていませんでしたが友情で満たされた人でした。人々と出会うことは、イエスの大切な務めでした。至る所でイエスは歓迎され、食事に招かれました。また、イエス自身が人々を迎えに出て来ました。

 私たちが持っているもの(命、知恵、家族、物資、また霊的なもの)全て神からの賜物だと、イエスは私たちに思い起こさせます。なぜなら、自然に自分が自分の内に「持ち主の精神と振る舞い」を育てています。事実、私たちは持っている物の持ち主ではなく、ただその管理人というだけです。それを自分自身と他の人の必要(ニーズ)のために上手に使って、いつか、神にその使い方を報告し、弁明しなければなりません。そのために私たちは神を真似ることがとても大切です。神は全ての人に対する慈しみ深い神であり、全ての人の幸福を望む神です。

  神から受けた賜物の管理人である私たちは、受け取った物を無駄にしています。私たちが住んでいる消費社会は廃棄物社会です。この社会はもっと物を持つように絶えず誘います。そしてもっと新しく便利で使い易い物を買うために、まだ使えても古くなったものを捨てるように勧めています。気を付けないと私たちは生きている時代の風潮に相応しく生きるために、知らないうちに必要でないものを求め、自分の人生の支配者になってしまうに違いありません。その結果、私たちはコマーシャルや宣伝に気をとられ、自分の欲望と貪欲の奴隷になっています。

 「不正にまみれたもの」に対して自由になるために、イエスの勧めに従って、賢明で、抜け目のない人、想像力と工夫のある人、世渡りのうまい人になりましょう。ですから私たちは騙されないように、魅力的なコマーシャルに耳を傾けず、賢い光の子として他人を大切にし、分ち合いながら、自分の持っている所有物や自分自身の全てを神の手に委ねましょう。アーメン。



          年間第26主日 C年  2019929日  グイノ・ジェラ−ル神父

                アモス6,14-7  1テモテ6,11-16  ルカ16,19-31

  預言者アモスの話と陰府の国で苦しむ金持ちの例え話は「世紀の悪」である「無関心であること」や「人を無視すること」を避けるように私たちを招いています。例え話の金持ちには名前がありません。彼は私たち一人ひとりかも知れません。この金持ちは悪いことをしていませんが、自分以外の者に無関心です。彼は自分の作った世界に閉じこもっていて、他人の不幸と苦しみを見ずに自分だけ安全に暮らしています。

  残念なことに、世界に広がっている教会でもこのような生き方を私たちはしているのではないでしょうか。まるで日光東照宮の三匹の猿を真似ているかのように「見ざる、聞かざる、言わざる」の態度をとり、自分のそばに座っている兄弟姉妹をしばしば見ていません。そういうキリスト者はまるで偶像のようです。目があっても見えない、耳があっても聞こえない、体があっても動きません。無関心が私たちを自分の殻にこもった状態に落とし入れてしまったからです。たとえば、親しい人たちがミサに来ているか・来ていないか、元気なのか・病気なのかなどについて無関心で、私たちの共同体から心が離れてしまった兄弟姉妹のために祈ることも、彼らと出会おうという望みもでてきません。というのは、私たちにとって他の人の事に心を配ることは、問題を起こすだけだと思い込んでいるからです。しかし、私たちは兄弟姉妹を避けることによって、私たち自身が神から遠ざかっていることを忘れています。自分のように愛すべき兄弟姉妹を無視して無関心になり、その結果「あなたの兄弟はどこにいるのか」(参照:創世記4,9)と叫ぶ神の声が私たちにはもはや聞こえていません。

  利己主義は良心に悪い影響を与えますが、無関心や無視は偽りの平和を与えます。このような偽りの平和は、人を地獄に落とすとイエスは忠告します。他の人の存在を無視することや他の人の存在に対して無関心でいることは、ある種の暴力です。しかし、他の人に気を配ること、他の人に対して心を配ること、他の人の喜びや苦しみ、一人ひとりの計画と希望を祈りで支えることは、私たちを永遠の命への道に導きます。私たちが「永遠の命を手に入れるために」神と人々の前で、「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求める」ように、テモテへの手紙の中で聖パウロは要求します。開かれた心を持つ人は、容易に無関心や無視を自分から追い払います。

  「人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた…何も気がつかなかった」(参照:マタイ24,38-39)とイエスは他の時に教えました。無意識、無関心に生きることこそがイエスが強く咎める罪です。神と他の人に心を配らないなら、キリスト者の人生はだらしなく、バランスのない、実を結べない人生になります。私たちが愛と分ち合いの泉となるために、神から命が与えられました。愛の実践なしには決して、この世にも、永遠の命の世にも幸せがありません。人を無視し、神についても無関心に生きる人の人生は実を結ばずに滅びに終わります。

  例え話の金持ちが地獄に置かれたのは、神の罰を受けたからではありません。自分の家のドアの前に座って、物乞いをしていたラザロに対して無関心で、全く気を配らなかったからです。自分と神やラザロの間に乗り越えられない淵を作り上げてしまったのです。ですから私たちは、この苦しみの状態にある例え話の金持ちと同じにならないように、他の人に対して無関心で、無感覚になる状態と戦う必要があります。誰であろうと、人々に哀れみや慈しみ、共感や思いやりを示すことによって、私たちは神の国によりいっそう近寄ります。それを怠ると、怠け癖のある私たちは自分の地獄を築いてしまいます。

  幸いなことに永遠の命の道を歩み続けるために、私たちには「モーセと預言者たちの教えがあり」、また、毎日曜日にイエスご自身が語る救いの言葉を受けています。ですから、イエスの直ぐ傍で、聖霊の助けを受けて、隣人を自分のように愛することによって開かれた心を自分の内に育てましょう。燃える愛によって、この世の無関心と無視の心を滅ぼしましょう。世界中の全ての教会の中で、誰であろうと、皆から必要とされ、愛され、歓迎されていると感じることができますように。なぜなら「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」(参照:マタイ25,4)とイエスが忠告しているからです。アーメン。



              年間第27主日  C年  2019106日    グイノ・ジェラール神父

          ハバクク1,2-32,2-4       2テモテ1,6-813-14   ルカ17,5-10

  信仰があると言って、すべてが簡単になることではありません。すべての人にとっては、人生は乗り越えるべき至難の業です。そういう理由で、預言者ハバククは出会った困難について不平と不満を言って神の説明を求めています。「主よ、どうして、あなたはわたしに災いを見させ、労苦に目を留めさせられるのか。暴虐と不法がわたしの前にあり、争いが起こり、いさかいが持ち上がっている」と。しかし、試練にもかかわらず信仰に生きる人は、いくらこの関係が痛みの叫びと無理解のわめきによって表現されていても神との関係のつながりを保ちます。

  預言者ハバククに与えられた神の答えは、正義と忠実に基づいた信頼への招きでした。「正しい人はその誠実によって生きる」(参照:フランシスコ会訳)と。預言者も、神を信じる人も、正しさと誠実さの内に留まるなら、神に向かって苦しみの叫びと不満と不平のわめきを叫ぶことができます。「わたしどもの信仰を増してください」と願った弟子たちに、イエスは「神があなたがたに命じられたことをみな果たしなさい」と答えました。即ち「神に揺るぎない信頼を示して、頼まれたことを全部忠実に行ないなさい」ということです。テモテへの手紙の中で聖パウロは同じことを勧めています。テモテが委ねられた使命を忠実に果たすことによって、再び「神の賜物」即ち「信仰の賜物」を燃え立たせるようにと招いています。

  信仰は全ての人に与えられている「神の賜物」です。ですから、人がそれをどのように使うかが問題です。もし日常生活を通して、正しさと誠実さで私たちが神と結ばれているなら、果たすべき務めの実現によって、私たちの信仰は必ず成長します。そして私たちがますます福音のよい僕となるためには、聖霊の働きかけを承諾しなければなりません。聖霊は私たちが受けた神の賜物を成長させ、燃え立たせるからです。聖霊のお陰で私たちは簡単に海に木を植えることができます。信仰は人にこの世界と宇宙万物に対する特別な力を与えるので、信じる人は言葉と行いによって神の救いの計画に与り、命の尊さを教え、命を守り、豊かにする使命を示さなければなりません。言い換えれば、神の僕である私たちは、キリストに結ばれて神の愛の力で、この世で効果的に働くように召されています。

  この世の生き方を無分別に真似るのではなく、むしろ父なる神を真似るようにイエスは私たちを誘っています。というのは、私たちは神の似姿に創られたからです。私たちが日常生活で示す、慈しみ・正しさ・誠実によって、私たちは神に似ていることを実証します。なぜなら、私たちの信仰がどうしても行い・考え・生き方に明らかに現れているからです。

  人々に示す素朴な愛と奉仕の行いを通して、私たちの信仰と希望が成長し実を結びます。神の恵みによって不可能であったことは可能となります。私たちが役に立たない僕であっても、聖霊が自由に私たちの内に働き続けることを承諾しましょう。それは私たちの心に注がれた愛(参照:ローマ5,5)について証しするためです。神が私たちの信仰と希望を増し強めるように、そして、私たちが世の救いの実現のために活躍する神の役立つ忠実な僕であるように願いましょう。アーメン。



         年間第28主日  C年   20191013日   グイノ・ジェラール神父

                2列王記 5,14-17    2テモテ 2,8-13    ルカ 17,11-19

  シリヤ人のナアマンとイエスの時代の10人のハンセン病を患っている者たちは、自分たちを癒す人を捜し求めています。ナアマンは預言者エリシャの所へ行きました。10人の患者は道で出会ったイエスに呼びかけます。預言者エリシャもイエスもどちらも彼らに薦めた癒しの方法はとても簡単です。というのも、神は絶対に不可能ことを人々に要求されませんから。ナアマンはヨルダン川の水に七度身を浸し、10人はエルサレムの神殿へ行って、祭司に自分の癒された体を見せなければなりません。

  奇跡的であろうと自然的であろうと、癒しは魔法の行為ではありません。癒しは自分の悪い状態を認めること、神や人の助けを願うこと、そして一番大切な信仰を表すことを要求します。この信仰は救いを予見します。「信仰は、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(参照 :ヘブライ11,1)。言われたことを信じて、体の回復の証拠を受ける前に、彼らは出発します。言われた言葉に対して彼らが示した信頼は、すぐ皆に望んだ癒しの恵みをもたらしました。

  しかし、救いをもたらす神の愛を信じることだけでは十分ではありません。神に感謝することがとても大切です。体の回復を受けるために、人は感謝しながら、神の憐れみのみ手に自分の全てを委ねる必要があります。なぜなら、受けた癒しよりも神に自分自身を委ねることの方がもっと大切ですから。ナアマンもサマリア人も一人ひとりが自分の信仰に基づいて神からいただいた癒しの恵みを感謝しました。ナアマンはイスラエルの土を自分の国に持って帰り、それで神に感謝を捧げる祭壇を作りました。10人の患者のうちで神を賛美した一人のサマリア人は「あなたの信仰があなたを救った」というイエスの貴重な言葉を受けます。神に捧げられた感謝と賛美によって、ナアマンも神を賛美した一人のサマリア人も癒された神と親密な関係を結んでいます。彼らは命の泉である神ご自身に繋がっているので、これからは神に他の必要な恵みを願うことができます。

  この頃「ありがとう」という言葉を多くの人が忘れているように思えます。欲しいものを手に入れる喜びから感謝の言葉を消してはいけません。神から頂いたすべての恵みのために感謝することを信仰は教えています。ご存知のようにミサは「感謝の祭儀」です。ご自分の子イエスを通して、神が世界に与えられた救いのために、私たちは感謝します。サマリア人は神とイエスに感謝するために戻ってきました。一週間の間に頂いた恵みを神に感謝するために、私たちは毎週日曜日に教会に戻るように信仰は強く誘います。なぜなら、賛美と感謝は私たちを癒し、清め、開放し、聖とするからです。そういう訳で、ミサの典礼は「いつもどこでも主・キリストによって賛美と感謝をささげることは尊い大切な務めだ」と教え、そのことを思い起こさせます。

  神に感謝することは、自分たちの人生の中で神に正しい場所を与えることです。また、感謝することによって私たちは親密に天使と聖人に一致させられ、本当にキリストと共に死に、復活させられたことを味わい、体験します。確かに、聖パウロが教えている通り、私たちが神に選ばれたのは「キリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです」(参照:2テモテ210)と信仰に結ばれた感謝は保証しています。ですから喜びに溢れて、一緒に私たちの救いの神秘の内に入り、大いに感謝しましょう。アーメン。

*ハンセン病:「聖書と典礼」では重い皮膚病と訳されている



          年間第29主日  C年  20191020日  グイノ・ジェラール神父

             出エジプト 17,8-13     2テモテ 3,14-4,2    ルカ 18,1-8

  私たちは人生のどの場所で祈りを捧げますか。祈りが好きですか。もしかしたら、私たちにとって、祈りは出来るだけ避けたい退屈な雑用ではないでしょうか。私たちは、しばしば祈りに対して霊的な欲求がわきません。そうであれば、どのようにして諦めずに祈り続けることや自分の祈り方を新たにすることができるでしょうか。

 モーセは神に長く祈り続け自分の信仰を現わしました。それゆえ、イスラエルの民の敵であったアメレク人に打ち勝つことができました。同じように、たとえ話のやもめも何度も断られても決して諦めずに懇願し主張し続けなければ正しい裁判を受けなかったでしょう。また、十字架に付けられ腕を広げたまま、三時間もの間苦しみを耐え忍び続けなかったら、イエス自身も罪に打ち勝って、復活の勝利を現すことができなかったでしょう。自分自身の身をもって諦めずに絶えず祈ることが大切だとイエスは教えています。それは違った祈りをたくさん増やすことではなく、むしろ自分の内に祈る心を育てること、つまり、神に向かう心を育てることです。

  神の言葉で養われた祈りは、信仰を持って戦うことを教えています。テモテへの手紙の中で聖パウロが教えているように、神の言葉は信仰が根を下ろす栄養の土です。神の言葉しか私たちの人生の内に実を実らせる神的な力を注ぎません。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、善に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような良い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」(参照:2テモテ3,16-17)と聖パウロは教えています。

 また、私たちの祈りは福音宣教的な幅をもたければなりません。信仰に支えられた祈りは、宇宙万物を絶えず変容させる聖霊の力です。今、私たちの地球は病気にかかっているので、すべてが上手くいかないようです。もし、世界中のキリスト者たちが、昼も夜も諦めずに祈ることを止めてしまうなら、この世界はもっとひどい状態に置かられたでしょう。もし万一、キリスト者たちが天に向かって手を挙げて祈り続けることを止めるなら、また「折が良くても、良くなくても」神の言葉とその慈しみを宣べ伝えることを止めるなら、一体この世界はどうなるでしょうか。

 祈りは、まず第一に神への礼拝です。祈りは神の前に私たちをおき、自分自身を明け渡して神を愛すること、神に感謝することを教えています。祈ることは、神に栄光を与えることです。祈りは全人類を救う神の強い望みに私たちを一致させながら、命を選び、大切にする者として私たちを形づくります。祈りは悪の力と死に対する宗教的な戦いです。苦しみの剣で心を刺し貫かれた母マリアが、十字架の下に立っているその姿こそが、マリアと共に諦めずに祈る大きな招きではないでしょうか。十字架の死一つを見ても、マリアは祈り続ける方です。もし私たちが日常生活の思いがけない出来事や苦しみをもたらす試練に直面して、自分たちの未来に対して信頼(希望)を失うなら、間違いなく信仰が地上から消えるでしょう。

 むしろ、信頼をもって試練の苦しみを乗り越えて祈り続けるなら、私たちは、神の計画を実現する美しい世界を造り上げるに違いありません。それにより全人類に対する神の力強い愛を現すでしょう。「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」とイエスは問いかけます。一緒に「はい」と答えましょう。特に私たちが目を覚まして、勇敢に、諦めずに、キリストと共に全人類のために執り成す務めをし続けるために、神に聖霊の教え導きと力を乞い求めましょう。このようにして、私たちの祈り方は宣教的になり、そして何よりも先ず神に栄光を与えるでしょう。アーメン。



        年間第30主日 C年  20191027日  グイノ・ジェラール神父

            シラ書 35,12-18     2テモテ4,6-18    ルカ18,9-14

  先週の日曜日に忍耐強く祈るようにイエスは私たちを招いていました。今日はイエスが正しい祈り方を教えています。エルサレムの神殿に祈るために二人の人が来ました。最初の人は、ファリサイ人で信仰篤く熱心に律法を守り、厳密に律法が要求することを行なっています。もう一人は徴税人で、彼はイスラエルの国を占領しているローマ人の協力者です。自分の利益を考えて不正なやり方でローマ人が要求する税金をかすめ取り、残りをローマに納めています。

  ファリサイ人の祈りを聞けば、確かに彼は模範的なイスラエル人だと解かります。正直で一週間に二度断食し、神殿の維持費として全収入の十分の一を納めています。このファリサイ人は実直さの模範です。しかし、イエスはそう思っていません。なぜなら、このファリサイ人は、他の人々を見るとき、自分と比べそして厳しく批判し、軽蔑するからです。人を差別して、自分は偉いと自慢する高慢な祈りを神に捧げることによって、このファリサイ人は律法の最も大切な掟を無視しています。それらは愛、慈しみ、憐れみと同情です。それどころかこのファリサイ人は、神に寄り頼まずに、自分の努力だけで正しくできていると思い込んでいます。結局、神の前に自分自身を大きく見せる彼の目的は、自分のよい業によって得た報いを受けるためだけです。ですから、このファリサイ人の心の中には神のための場所が全くありません。

 逆に、徴税人は遠くから神に近寄らずに、自分の相応しくない生き方を認めています。徴税人が神の慈しみに捧げるものは、自分の罪人の状態だけです。徴税人の心から湧き出る祈りは、揺るぎない希望と悔い改めの叫びです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と。徴税人は謙遜で目を天に上げようともせず、胸を打ち続けています。シラ書が教えている通り、自分の「祈りは雲にまで届き、神がその祈りを聞き入れること」(参照:シラ書35,16-17)を、この徴税人は良く知っているからです。徴税人の謙遜な祈り方は、直ぐに神の慈しみと豊かな赦しを彼の上に引き寄せます。

 この例え話を通してイエスは、神の前に揺るぎない信頼を示しながら謙ることを私たちに教えています。なぜなら、私たちが実現していることは、いつも神の恵みと祝福による業だからです。どうしても私たちには、神の慈しみが必要ですから。聖書自身が神への祈り方を教えています。「主よ、わたしの唇を開いてください、この口はあなたの賛美を歌います」(参照:詩篇 51,17)、「 神よ、速やかにわたしを救い出し、主よ、わたしを助けてください」(参照:詩篇70,2)と。

  テモテへの手紙の中で、ファリサイ人であった聖パウロは、この例え話のファリサイ人のように強く自慢しています。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです」(参照:2テモテ4,7-8)と。しかし、聖パウロは直ぐ後で自分の惨めさを認めます「しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ…主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました」(参照:2テモテ4,17)と。聖パウロは神のお陰で自分の使命を果たしたことを証し、そして自分に害を与えた人々のために執り成しています。「だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように」(参照:2テモテ4,16)と。このようにして聖パウロは、受けた恵みのために神に感謝することだけでは十分ではない、その恵みを皆の利益のために使う必要性があると私たちに教えています。

 もし私たちが神によって正しい者、義とされたいなら、神に向かって謙って、正直に叫びましょう。「主よ、私は罪人です。あなたの助けと赦しが必要です。早く急いで助けに来てください」と。こんな風に祈ることはそんなに簡単ではありません。なぜなら、自分の内に自己愛と高慢がどこかに残っているからです。救いは行なった断食や良い業、自分の努力と犠牲によるのではありません。救いはよい生き方の報いでもありません。神は憐れみ深く慈しみ深いからこそ、私たちが救われています。神は私たちの聖なる父ですから、神の子どもである私たちはその限りない愛と赦しによって救われ贖われています。アーメン。



           年間第31主日  C年  2019113日   グイノ・ジェラール神父

               知恵の書11,23-12,2   2テサロニケ1,11-2,2  ルカ19,1-10

  神の救いは報いではありません。また私たちの努力の結果でもありません。救いは神の無償の賜物です。ザアカイとイエスの態度はそれをはっきりと表しています。

  ザアカイは、社会からのけ者にされている人、見捨てられた人、排除されている人々の全ての実例といえる人です。国を占領するローマ人の友であった徴税人の頭であるザアカイは、かなり金持ちです。背が低いので、皆から軽んじられて、いつも物笑いの種にされていたので、ザアカイは静かにずっと苦しんでいます。確かに、自分の仕事が皆の怒りと批判の対象となり、自分の背が低いという体の不利な条件もすべて人々のあざけりやいじめや軽蔑を引き寄せるからです。ザアカイが、イエスをどうしても見たい理由は単なる好奇心ではなくて、きっと無意識にイエスに自分が抱いている不快感を知らせたかったのです。イエスを見ることによって、ザアカイは愛され、尊敬され、受け入れられると言う、言葉では言い表せない自分の希望を打ち明けたいのです。

  イエスは直ぐにザアカイの望みを満たそうとします。イエスは立ち止まって、上を見上げて、ザアカイに自分を彼の家に招待するようにと願い、ザアカイに名誉を与えます。イエスの友情的な誘いがザアカイの内に直接の変化を引き起こします。これこそが、神の救いです。ザアカイはよい業を行なうことを約束しますが、その決意は与えられた救いに先立ちません。むしろ受けた救いの結果です。イエスはそれを確認し、証明します。「今日、救いがこの家を訪れた」と。今日の福音は、次のことを教えています。イエスを見たい、あるいはイエスの愛を感じたい時、イエスご自身が私たちに近寄り、救いの喜びと力を私たちに与えられます。

 そうであるならば、回心することはイエスによって発見され、私たちの客となりたいイエスの訪れを承諾することです。聖パウロが教えている通り、私たちの魂、「私たちの内面的な家は」イエスを歓迎する度合いに応じて、主が「その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださいます」(2テサロニケ1,11)。

 自分の家と人生にイエスを歓迎したことによって、ザアカイは自分のうちにあった最も良いことを目覚めさせました。イエスの現存は彼をお金の支配と貪欲から開放しました。自分の上に注がれたイエスの眼差しは、ザアカイの目を開き、他の人を慈しみ深い眼差しで見ることを可能にしました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と。

 ザアカイに倣って、私たちもイエスを見るために走りましょう。私たちを変化させ、他の人に向かわせるため、また全ての人に向わせるために、たとえその人々がどのような者であろうとも、イエスはどうしても私たちの魂の住まいに留まりたいのです。

 個人的に受ける救いの恵みは、イエスと共に「世の救い」を実現するための呼びかけです。「罪に陥る者が、悪を捨てて神を信じるように」(参照:智恵の書12,2)、神は私たちを必要としています。ザアカイと同様に、私たちも与えられている救いの喜びに入りましょう。そしてお互いのために祈り合いましょう。聖書のみ言葉の通りに、神が「その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださいますように」(参照:2テサロニケ1,11)。アーメン。



           年間第32主日   C年  20191110日   グイノ・ジェラール神父

               2マカバイ記 7,1-29-14  2テサロ二ケ 2,16-3,5  ルカ 20,27-38

  サドカイ派の人々は聖書の最初の五冊の本(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)しか認めませんでした。この本は、モーセの律法と結婚に対する掟や子孫を持つ必要性について述べていたからです。サドカイ派の人々は復活と天使の存在を否定していました。しかし、彼らは天使ラファエルによって妻になるべきサラのところへ導かれたトビアの物語を知っていました。サラは七人の夫たちが次々に初夜に死んでしまうことで悩んでいました。アスモダイという恐ろしい悪魔が結婚式の夜を過ごす前に夫を殺してしまったからです。そのために彼女は子供を生むことができませんでした(参照:トビト記3,8)。サドカイ派の人々はイエスを罠に落とすためにこの物語を使おうとしました。

  マカバイの時代、初めてイスラエル人が信仰のために迫害された時に復活の信仰が生まれました。マカバイ記の二冊の本の殉教者たちの証しを通してこの復活の信仰が広まりました。サドカイ派の人々に与えた答えで、イエスは復活するのに相応しいとされる人は「天使に等しい者である」と断言しました。即ち彼らは愛の完成に生きていて、神に似ています。イエスはそれについてはっきり教えています。「復活にあずかる者として、神の子だからである」と。

   聖ヨハネはこの事実を手紙の中で説明しようとしました。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今、既に、神の子ですが、自分がどのようになるかはまだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」(1ヨハネ3,1-2)と。

  「神の子」として生きることは、私たちに与えられた最も偉大な幸福です。誰よりもイエスは「神の子」が味わう幸せを良くご存知です。この幸せについて考えるように聖パウロは私たちを誘いました。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」(参照:エフェソ1, 4-5)。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」とイエスは教えています。私たちが創造されたのは死ぬためではなく、生きるためです。しかしながら永遠の命は決して今の生き方の継続ではありません。永遠の命は私たちを変容させ、私たちの体と精神と魂を栄光で包む神の賜物です。

  「次の世に入ってふさわしいとされた人々」にイエスは復活を約束します。キリストの言葉が私たちを惑わせるかも知れません。しかし、イエスは生涯にわたって父なる神に向って生きていて、ずっと神の言葉に耳を傾けた人でした。「神の子」となるために、キリストと同様に私たちも神のために生き、神に耳を傾けつつ、神に向かって生きることが大切です。私たちを救うために、神は私たちの同意を必要とします。神に私たちの希望を結ぶことによって、復活と永遠の栄光が与えられているからです。

   キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたから、わたしたちも新しい命に生きるのです(参照:ローマ 6,4)。洗礼を受けた時に、私たちは神の子どもとなりました。ですから、お互いに祈りあいましょう。神のために、神によって、神と共に生きる希望がますます大きく広がりますように。そして私たちが復活の証人として相応しく生きる喜びと知恵を聖霊に願いましょう。アーメン。



         年間第33主日C年  20191117日     グイノ・ジェラール神父

                マラキ3,19-20  2テサロニケ3,7-12  ルカ21,5-19

  文明は次々消え、時代は移り過ぎていきます。後世の人々にその時代の栄華を伝える遺跡を残しても、人が作ったものは段々と姿を消していくのが普通です。しかし大自然が荒れ狂う時や地震、あるいは人間の愚かさが原因の戦争や火災などで歴史に残る遺産が破壊された時、私たちは胸の締め付けられる思いがします。なぜなら、今は、以前と同じようなものを作れないからです。たとえば、パリのノートルダム聖堂のことを思い起こしましょう。

  イエスが預言する災いが、私たちを怖がらせるべきではありません。むしろこの知らせは私たちの信仰と希望を励ますように伝えられています。そういう理由で、教会は不幸を宣言する話を待降節の前に私たちに聞かせます。待降節は、喜びと平安に溢れる期待の時ですから。戦争、地震、疫病によって示されている外面的で暴力的な災いは、内面的な暴力に比べるとまったく比べものになりません。自分の信仰を捨てさせ、自分の良心と確信に従わせないように強制的に行なわれる暴力的な迫害は、外面的な災いよりも恐ろしいものです。内面的な暴力はその人に中々癒すことのできない害を与えるのです。時間の流れとともに受けた外傷は自然に消えますが、心に受けた傷はずっと残ります。

  この内面的な暴力に対して、イエスは私たちに勇気と忍耐をもって自分の希望と信仰を証しするように励ましています。皆から憎まれていても、私たちは決して一人ぼっちになりません。イエスご自身と聖霊が、私たちに襲って来るあらゆる種類の試練を乗り越えるために必要な力と助けを与えるからです。今現在、世界中でキリスト者が迫害されています。教会が破壊され、キリストを恐れぬ不敬者から嘲りを受け、典礼用品や聖櫃が冒涜され、聖体が汚聖され踏みにじられています。20世紀は他の世紀よりも大勢の殉教者たちが出たことを教皇ヨハネ・パウロ2世は言いました。さて、21世紀の終りの教皇は一体何を言われるでしょうか。

  キリストが私たちに告げることをよく理解するために、歴史の中の過去の出来事も必要です。私たちが予想する事に反して、イエスは遠い未来について話していません。イエスは今の現在について語ります。今、私たちは危険に囲まれている時代に生きているので、私たちは信仰の内に耐え忍び、信頼を強くもち、揺るぎない希望を宣言するようにイエスは私たちを励ましています。確かに、今の時代の状況を見て、近い未来についての憂慮すべき言葉を耳にして、絶望に陥り、恐れを抱いておびえ、信仰と希望を捨てる危険性がたくさんあります。

 「惑わされないように気をつけなさい」とイエスは勧めます。私たちは何も恐れる必要がありません。イエスは世の終りまで、私たちの直ぐ傍に、また教会と共に留まっているからです。私たちは信じます。イエスのお陰ですべての出来事は、たとえそれが恐ろしい悲劇的な出来事であっても、愛と命あふれる出来事に変化されます。

  私たちは良く知っています。死から神は命を取り出すことを。復活されたイエスは、世の終りまで私たちと一緒にいます。それは私たちが、神の愛と命に永遠に生きるためです。「わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」(参照:2コリント4,16)と、聖パウロは言いました。これこそキリスト者の確信です。この確信によって喜びを味わい、勇気と力を得るために、私たちはキリストの勧めに従い、忍耐強く頑張る必要があります。そして絶えず神に向かって叫びましょう。「主よ、あなたのあわれみに支えられ、罪から解放され、すべての困難にうち勝つことができますように。わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます」(参照:ミサ交わりの儀、主の祈りの後)と。アーメン。



           王であるキリスト C年  20191124日   グイノ・ジェラール神父

                 2サムエル記 5,1-3   コロサイ1,12-20    ルカ 23,35-43

  今日、私たちは宇宙万物の王であるイエス・キリストの神秘を探り味わうように招かれています。イエスは私たちの人生の最終目的というだけではなく、全人類の歴史の起源でもあります。この世界には始まりがありました。時の流れと共に、今に続く変化と進化があります。この世界もいつか終りがあることを私たちはよく解かっています。

  一部の悲観的な人々は、宇宙万物は完全な滅びに向っていると思い込んでいます。しかし、私たちの信仰は、宇宙万物は神によって愛の完成に導かれていることを知り確信しています。三位一体の愛の内にすべてを引き寄せるキリストの到来により、愛の完成は実現されるでしょう。この神秘は宇宙万物に対する神の永遠の愛の計画と、人間になったキリストの神秘に繋がっています。と言うのは、聖霊の力の内にイエスは神が定められた救いの計画を実現するからです。言い換えれば、宇宙万物を創造する前から、神は すべてをキリストの内に集めることを決めていました。聖パウロが教えている通り、「万物は御子によって、御子のためにつくられました」。宇宙万物の王イエスは「信仰の創始者また完成者(参照:ヘブライ12,2)であるからこそ、「誰でもキリストと一致しているなら、新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、今は新しいものが到来した」(参照:2コリント5,17フランシスコ会訳)ので、神の国がすでにその人に与えられていると聖パウロは証ししています。

  新しいダビデ王として、イエスは神の民を唯一の王国に集めようとします。私たちが永遠に生きるためによい牧者であるイエスは、ご自分の命を与えました。悪の力と死にうち勝った宇宙万物の王であり、ただイエスだけが私たちの命に、そして全世界と人間の歴史に意味を与えます。イエスは、生涯にわたって「神の国」について証ししました。命あふれる小さな種として(参照:マタイ13,31)あるいは、豊かな豊作として(参照:ルカ10,2、マタイ13,24-30)さらに、魚でいっぱいで破れそうになった網として(参照:マタイ13,17)イエスは「神の国」を紹介しました。また、信仰の証しによって「神の国が実際に、すでに私たちの間にある」こと(参照:ルカ17,21)をイエスは説明しました。

  同時に「神の国はこの世に属していない」(参照:ヨハネ18, 36)とイエスは総督のピラトに教えました。不思議なことに、神の国は近く、すでに始まっているのです。そして、私たちはその建設のために働いています。しかも、神の国は近くても遠くても、いずれ訪れるであろう将来に約束されています。確かなことは、この世は決して神の国にはなれません。しかし、この世の中で私たちは神の王国のために働いています。その王国は「神の『今日の中』に」即ち「神の『永遠の中』に」実現されているからです。キリストのそばで十字架に付けられた犯罪人は、それを上手に表そうとしました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と。犯罪人の願いに、イエスはすぐ答えました「はっきり言っておくが、今日、永遠に入る時、あなたは私と一緒にいる」と。神の「今日」とは『永遠』の意味もあります。

  神の言葉とイエスの教えを注意深く聞くことによって、私たちは『永遠』に入ることが出来ます。信仰の内に、感謝の心で、教会の秘跡とキリストの御体をいただく時、既に永遠が私たちを包んでいます。自分たちの愛と信仰を強めるために皆で一緒に祈り、神に賛美と感謝をささげるために私たちが天使や聖人と共に声を合わせている時、神の王国は私たちの間にあります。私たちの助けを願う人や苦しんでいる人の隣人になる時にも、私たちはすでに神の王国に入っているのです。

 「王であるキリスト」の祭日は、この事実を私たちに啓示しています。ご自分の死と復活によって、イエスは私たちのために天の門、神の王国の門を大きく開きました。ですから、宇宙万物の王であるイエス・キリストを祝いながら、私たちはイエスの王国の喜ばしい証人、そして熱心な建築家となりましょう。この王国は皆に与えられている、平和、愛、赦し、慈しみの国ですから。アーメン。




          トップページに戻る